quadratureのシニカル日記

イヤなことは壺の中に

盤山寮

その昔、新潟市の山ノ下にあった、引揚者向けの宿泊施設、ばんざんりょうである。
新潟県立図書館、越後佐渡デジタルライブラリによれば、

昭和21年(1.22)新潟市に引揚者の収容施設として盤山寮・臨海荘が開所する([9]140)

とのことで行末の数字は、「新潟県史通史編9の140ページに関連事項が記載されている」ことを示す。いずれ是非、新潟県史通史を読んで見たいものだ。
この盤山寮に、昭和三十年後半頃(Quadratureが4〜5才の頃)、一度だけ、近所の子供に誘われて入ったことがある。薄暗い大きな建物で、真ん中に廊下があり、左右に、木製の柵があってその中に何人かずつの人が入っていた。子供が元気に騒ぐ声がこだましてうるさいくらいだった。訳がわからなく、大人しくしていたのだが、ちょっとすると誰かに「勝手に入っちゃだめ」と言われて外に出た記憶があり、それだけである。
昭和四十年代に入るとこの寮は「公衆市場」となり、ほぼ同時に、裏手にもっと大きくて立派な市営住宅の高層ビル(と言っても4〜5階)が何棟も出来た。新潟地震液状化現象はしっかりと記憶されていて、電柱よりもずっと高いセメントの杭を何本も、カーンカーンと、地面に打ち込んでいたのが記憶にある。
その公衆市場もいつの間にか建物ごと無くなってしまい、今はGoogleMapを見ても一体全体どこにあったのかさっぱり分からない。漢字で書くと万山寮や萬山寮ではなく、盤山寮だったと言うのは上記のライブラリを検索して初めて分かった。(後記、7月)検索すると、旧満州国錦州省盤山県と言うのがあったらしい。現在のシナ、遼寧省盤錦市である。当時の奉天から南へ下った南満の一角で、熊本、香川、新潟、与論島などからの開拓団が居たらしい。新潟−北鮮には定期航路「日本海航路新潟北鮮線」があり、年間数万人の利用があり、移民、観光、就業から修学旅行まで賑わったらしい。新潟市の会社「コバリキ」の社史によれば、満鉄から日本海航路を経由して新潟、東京までつなぐ、陸海ルート構想もあったらしい。


大人になってから、映画「どっこい生きてる」を見て、子供の頃に見た盤山寮の記憶がフラッシュバックした。戦後、朝鮮半島満州から命からがら引き揚げて来られた方々のご苦労に敬意を表したい。

(後記)
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