quadratureのシニカル日記

イヤなことは壺の中に

村山富一さんは頑張った

とかく悪く言われる村山政権(1994-1995)であるが、実は村山総理は非常に頑張った。もちろん、北朝鮮のために。

以下、産経オンライン(2017.8.31)【正論】「斬首」恐れる金氏を追い詰めよ 独裁者は命が危ういと判断したときだけ譲歩する 

モラロジー研究所教授・麗澤大学客員教授西岡力

独裁者は自分の命が危ういと判断したときだけ譲歩する。1994年と2002年に米国の軍事圧力を恐れて北朝鮮が2回、大きな譲歩をおこなった。1994年には米朝が最終談判して北朝鮮が核開発凍結という譲歩をした。しかし、その譲歩の中に日本人拉致被害者帰国は含まれていなかった。
 それなのに村山富市政権は米国の求めに応じて朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)への10億ドル支出に同意してしまった。2002年には北朝鮮が米国の圧力をかわすため日本をカードとして使ったので、北は拉致を認めて5人を帰すという大きな譲歩をした。


類似の記事が「救う会全国協議会」のサイトに動画入りで詳細を含めて掲載されている。

モラロジー研究所教授・麗澤大学客員教授西岡力

北朝鮮は二枚腰、三枚腰の嘘つき
今年4月に日本のテレビで、「クリントン政権は爆撃の準備をしたが、米軍が5万人くらい、韓国人が50万人くらい死ぬだろうというシミュレーションをしたのでやめた」という解説がありましたが、それは半分正しく、半分嘘です。
 シミュレーションをしてそのような被害が出るという結果が出ましたが、しかし核を持たせたらもっと被害が大きくなるから、爆撃の準備は続いていました。そしたら金日成が出てきて、カーターと会って、核開発を凍結する譲歩をしました。軍事的圧力と39号室資金の枯渇という2つの圧力があって初めて、寧辺の原子炉を止めるという譲歩をした。実際寧辺の原子炉は止まりました。
 しかし、金正日は二枚腰、三枚腰の嘘つきですから、原子炉を止めてでプルトニウム生産は止まったんですが、パキスタンから濃縮ウラニウムを作る技術を導入して、地下で濃縮ウラニウムを作らせました。濃縮ウラニウムは原子炉はいらないんです。遠心分離機を回せばいい。地下で遠心分離機を回し続けて核開発を続けた。
 それだけでなく、寧辺の原子炉は発電所だと嘘をついて、アメリカもそれを呑んだ。寧辺の原子炉は黒鉛減速炉というプルトニウムをつくりやすい原子炉ですが、それは止めて、代わりに軽水炉というプルトニウムをつくりにくい原子力発電所を作ってやるということで、全体の費用が50億ドル。
 韓国が35とか40億ドル出して日本は10億ドル出すことを村山政権がOKして、半分の5億ドルくらい出した。それだけでは北朝鮮はウンと言わないで、軽水炉ができるまで電気が足りなくなるから火力発電所重油をくれと。それもアメリカが呑んで、アメリカは毎年50万トンの重油をただで北朝鮮に提供し続けた。金正日はそれをもらいながら濃縮ウラニウムの抽出を続けていました。
 次の危機が来たのが2002年です。2001年に同時多発テロが起きました。アメリカはアフガニスタンでまず戦争をしました。アフガニスタンアル・カイダの基地があった。アル・カイダの基地を攻める時、実はパキスタンから米軍は発進したんです。
 パキスタンが事実上アメリカの同盟国になっていた。パキスタンに米軍が入ってすぐしたことの一つは、パキスタンはインドに対抗するために核開発をしていましたので、パキスタン軍に行って、「お前たち核開発をしているな。それはいいが、まさかアル・カイダに渡してないだろうな」と。
 当時のアメリカにとって、核でテロされるのは悪夢だった。それを徹底的に調べました。そうしたらアル・カイダには行っていなかった。イラクにも行っていなかった。しかし、イランとリビア北朝鮮に濃縮ウラニウムの技術が行っていたことをアメリカはつかんだ。
 私は惠谷治さんたちと議論して、98年くらいからパキスタンの技術が北に入っているキャンペーンをはっていたんですが、日本ではそれほど話題にならなかった。しかし、アメリカがその決定的な証拠をつかんだ。
 パキスタンの「核開発の父」と言われたのはカーン博士です。アメリカのボルトン国連大使は我々に、「私は直接カーン博士に会った」と。またケリー国務次官補にも我々は面会しましたが、「カーン博士に会った」と。
 カーン博士は13回とか16回北朝鮮に行って、濃縮ウラニウムの技術を教えていた。また、「北朝鮮の核爆弾を見た」と。その人にアメリカが会っている。2001年から02年は、まだただで北朝鮮重油を送っていた。当時のブッシュ政権は、テロとの戦争で怒りにあふれていたわけです。