quadratureのシニカル日記

イヤなことは壺の中に

戸籍解読7

戸籍ではなく、位牌の写真が見つかった。昭和四十年代のものと思われる。
全部で15枚分、かなりの高解像度で撮られているので、よほど良いカメラ、ニコンかライカ、を使用して撮影したと思われる。

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昭和四十年代に撮影されたと思われる位牌
  • 左上から六枚:
    1. 文政七 申年、空○風了幻信士、八月四日〔1824〕
    2. 空白
    3. 文化十四 丑年、梅秀童女、十一月初朔日〔1817〕
    4. 安政六 申年、知光童子、十二月八日
    5. 空白
    6. 天明七年 未年、知良童女、八月初六日〔1787〕
  • 左下から九枚:
    1. 俗名 ○○屋仁三郎、行年十九(?)
    2. 享保十三年戌、中捨、妙憶智清信花位、九月二十日〔1728〕
    3. 天明四 申年、春誉輝月○○信女〔1784〕
    4. 明和六天、法名釈庄光教、丑十月十一日〔1769〕
      • ここまで江戸時代。以下、高祖父母と曾祖父母、そして、祖父(祖母はこの写真撮影のとき健在)
    5. 中蒲原郡高山村生、北蒲原郡安田村小浮村、長谷川正右門、俗名○○才吉、行年六十一才
    6. 才吉妻、俗名○○タケ、行年七十五才
    7. 亀田町塩田仁蔵長女、太郎吉妻(留吉○)俗名 山○リン、五十七才
    8. 山○留吉、行年八十○才
    9. 行年五十八才

これと戸籍を対応させてみよう。
江戸時代のものはもちろん、全く分からないが、下5の「俗名才吉」は、戸籍では「才一郎」となっており、死亡日は明治明治38年12月8日である。
この才吉(才一郎)の妻が、山○タケである。この夫婦の養子になったのが、山○留吉で、彼は北蒲原郡安田村大字保田南四十七番の、井上与吉・リキ夫婦の子供で、明治七年十二月二十三日生まれである。
留吉は、明治三十七年十二月十二日に、塩田ニンと結婚しており、この塩田ニンは、戸籍によれば、塩田仁蔵の長女、とある。すると、戸籍の、山○リンの正式名は「ニン」と言うことになる。ニンは、明治十二年五月十日生まれで、昭和十一年九月四日に亡くなっており、行年は確かに57才である。
留吉本人の行年は、亡くなったのが昭和三十二年一月二十一日なので、生年との差は83となるが、位牌の行年が八十までは読み取れるがその次の位が読めない。
さらに、この留吉の妻ニン(リン)の位牌には、太郎吉妻(留吉○)と書かれており、留吉は、太郎吉とも呼ばれていたことが分かる。
確かに、この太郎吉と言う名前は自分が小さい頃、聞き覚えがあるのだ。